ATD ICE 2024最新レポート|人材育成トレンドと研修設計の実践知見

世界最大の人材育成国際大会「ATD ICE 2024」が、2024年5月下旬にアメリカ・ニューオーリンズで開催されました。参加者数は9,000人、展示会出展社300社、13ジャンル・300以上のセッションが並行して行われた業界最大級のイベントです。海外参加者77カ国・地域のうち、日本からの参加者数は159名と世界第2位を記録しており、日本における人材育成への関心の高さがうかがえます。
本記事では、数百のセッションの中から「重要で・実用的で・日本にも合う」という観点で絞り込んだ最新トレンドと成功事例をお届けします。人事・研修担当者の皆さんが、自社の研修設計や組織開発に活かせる実践的な情報を中心に構成しました。
ATD ICE 2024の全体像:2つの大きなテーマ
今大会のプログラムを整理すると、大きく2つのテーマに集約されます。一つは「人材育成のホットトピック(最新トレンド)」、もう一つは「人材育成のコアコンピテンシー(中核領域の進化)」です。
前者はテクノロジーとヒューマン(人間性)という、一見180度異なるベクトルが共存していた点が特徴的でした。後者は研修設計・効果測定といった人材育成の基本業務について、毎年アップデートされる知見が共有される場となっています。以下、それぞれの内容を詳しく見ていきます。
ホットトピック① 生成AIを研修設計に組み込む——ノバルティスの実践事例
昨年(ATD ICE 2023)のAI関連セッションは概論・紹介レベルが中心でしたが、2024年は「具体的な活用事例と実践的なアドバイス」に大きくシフトしました。中でも注目を集めたのが、グローバル製薬会社ノバルティスによる生成AI活用セッション「Innovate or Die: Harnessing Generative AI for Maximum Impact」です。
ノバルティスのセッションでは、世界的に普及している研修設計フレームワーク「ADDIEモデル」の各ステップに生成AIを組み込む手法が紹介されました。ADDIEモデルとは、分析(Analyze)・設計(Design)・開発(Develop)・実施(Implement)・評価(Evaluate)の5段階からなる体系的な研修設計の枠組みで、PDCAサイクルを教育の文脈に落とし込んだものです。
各ステップでのAI活用ポイント
分析(Analyze):従業員向けアンケートの作成から集計・分析まで、人間が行う場合の数十分の一のスピードで処理できます。さらにニーズ分析の結果と既存の研修コンテンツを自動マッチングする活用も可能です。
設計(Design):研修設計の現場で最も多い課題の一つが「講師の一方的な講義時間が長く、受講者が主体的に取り組む演習時間が不足する」ことです。AIは膨大な演習バリエーションのデータを持っているため、インタラクティブな演習のアイデア出しを任せることができます。
開発(Develop):教材・スライド・講師用トークスクリプト・映像素材の制作は、研修準備の中で最も時間がかかる工程です。100時間以上を費やすケースも珍しくありませんが、生成AIを活用することで大幅な時間削減が実現します。
実施(Implement):eラーニングにおいて特に効果を発揮します。受講者のロールプレイに対してリアルタイムでフィードバックを与えたり、理解度に応じてコンテンツと演習問題を自動調整したりすることが可能です。
評価(Evaluate):研修効果測定は「やりたいが時間がない」という担当者が多い領域です。AIを活用すると、アンケートデータを迅速に分析できるうえ、人による主観的評価に比べて客観性の高い分析結果が得られます。
日本企業においても、研修担当者の業務負荷を軽減しながら研修品質を高める手段として、AIの段階的な活用は十分に現実的な選択肢です。まず「分析」や「開発」の工程から試してみることを推奨します。
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ホットトピック② 心理的安全性・メンタルヘルス・ヒューマンリーダーシップ
AIやテクノロジーと並んで、今大会でもう一つの大きな柱となったのが「人間らしさ」に関わるテーマです。心理的安全性・メンタルヘルス・ウェルビーイング・ヒューマンリーダーシップのセッションが複数開催され、いずれも高い関心を集めました。
心理的安全性に関するセッションの中で特に印象的だったのが、「上司の不機嫌さがチーム全体に与える悪影響のメカニズムと解決策」についての発表でした。上司一人の感情状態が、チームメンバー全員のパフォーマンスに連鎖的に影響を及ぼすメカニズムが科学的な観点から解説され、リーダーの感情管理が組織全体のパフォーマンスに直結することが改めて示されました。
メンタルヘルスについては、パンデミックが公式に終息した後も「心の余裕がない状態が続いている従業員が多い」という認識が世界共通の課題として共有されていました。これは日本においても同様で、研修や組織開発の文脈でメンタルヘルスへの配慮が欠かせない時代になっています。
リーダーシップに関しては、欧米では「従業員にどう出社してもらうか(Return to Office)」「ハイブリッドワーク環境でのチームワーク強化」「エンゲージメントをいかに維持するか」が大きな課題として議論されていました。日本でも働き方の多様化が進む中、ヒューマン系のリーダーシップスキルへの投資が重要性を増しています。
ホットトピック③ パーソナライズ学習の実用段階への移行
受講者一人ひとりに合わせたオリジナル研修プログラムを提供する「パーソナライズ学習」は、これまで概念としては広く知られていたものの、実装の複雑さから多くの組織では導入が難しい状況が続いていました。しかし2024年、ついにこの領域が実践フェーズに入りつつあることが示されました。
背景にあるのはITの進化です。豊富な学習コンテンツライブラリ、複雑な研修プログラムを一元管理できるプラットフォーム、受講者の学習状況に応じて適切なフィードバックを与えるAI——これら三つの要素が揃って初めてパーソナライズ学習は実現します。2024年の大会では、こうした機能を備えたプロダクトの展示が複数見られ、実用段階への移行を実感できた大会でした。
コアコンピテンシー① 脳科学から見た研修設計の再考
コアコンピテンシー(人材育成の中核業務)の領域でも、注目すべき知見が共有されました。中でも最も新鮮だったのが、脳科学と研修設計を組み合わせたセッション「The Distracted Mind: How Technology Changes Memory and Learning(集中力の低下:ITによる記憶力と学習力への影響)」です。
日本の研修現場でも、担当者からこんな声をよく耳にするようになりました。「デジタルネイティブは本当に集中力がない」「昔の受講者と比べて、聞かない・メモしない・覚えない」。このセッションはそうした現場の実感を、脳科学のデータで裏付けるものでした。
脳科学が示す3つの問題
問題1:集中できない環境の深刻化
情報過多の時代に突入した結果、パンデミック前と比較して、会議時間は148%増、月間メール数は460億件増、Teamsチャットは45%増、資料作成は66%増という状況が生まれています。受講者が研修に集中するのが難しくなるのは当然といえます。
問題2:短期記憶のオーバーロード
大学生を対象にした研究では、10年前と比べて記憶力低下・成績低下・マルチタスクの増加といった傾向が確認されています。特に注目すべきは「スマートフォンが机の上にあるだけで作動記憶が11%低下、バッグの中にある場合でも8%低下する」というデータです。スマートフォンを目にしていなくても、存在を意識するだけで認知資源を消費してしまうという事実は、研修設計に直結する重要な示唆です。
問題3:早期忘却とデジタル健忘症
現代人は記憶をデジタルデバイスに委ねており、「検索すれば分かる情報は覚えなくていい」という思考が定着しつつあります。その結果として記憶力が低下し、さらに発想力・想像力・集中力・判断力・計画力・EQにも連鎖的な悪影響が生じるという報告がありました。
脳科学から導き出した研修設計の5つのヒント
ヒント1:集中力管理を最優先に
タイムマネジメントよりも「集中力の管理」を重視します。具体的には、研修人数を12名未満に抑える、内容を吸収するための十分な時間を設ける、マルチタスク禁止のルールを明示するといった設計が有効です。
ヒント2:情報シャワーをやめて体験学習へ
知識を一方的に注ぎ込む「情報シャワー型」の研修から脱却し、五感に刺激を与える体験学習に切り替えることが、記憶への定着に最も効果的です。
ヒント3:記憶の再構築を設計に組み込む
集中しやすい時間帯(朝)に研修を実施する、間隔学習によって忘れかけた内容を想起させる仕組みを作る、アクティブラーニングを積極的に取り入れるといった設計上の工夫が有効です。
ヒント4:脳と身体を動かす
物理的に体を動かすことが理想ですが、オンライン研修でも最低30分に1回は画面から目を離す時間(1〜2分)を設け、画面を使わない演習を組み込むことが重要です。
ヒント5:目標達成を伴走してサポートする
成果がすぐに得られない場合に諦めてしまう受講者が増えています。本人の強みを言語化して伝える、周囲を巻き込む仕組みを作る、明確な期限を設ける、定期的に承認する——こうしたサポートがなければ目標達成できないケースが増えています。
コアコンピテンシー② 研修効果測定——「やらない言い訳」がなくなる時代へ
研修効果測定の重要性は1990年代から一貫して語られ続けており、カークパトリックやフィリップスの多段階評価モデルは今も有効です。ただ、近年の大きな変化は「モデルの紹介」から「モデルを使った実践事例」への移行です。現場での活用が着実に広がっています。
今大会のトレンドを一言で表すなら、「研修効果測定をしない言い訳がほとんどなくなってきた」です。経営層からの測定への要求は年々強まっており、ITによる情報収集の効率化によって以前より手間もかかりません。事例も豊富に蓄積されており、既存のKPIと連動させることで経営者やラインマネジャーにも伝わる形にできます。効果測定への取り組みを始めるなら、今がその好機です。
参考事例① 社内講師の体系的育成——米国政府機関の10日間プログラム
日本企業にも参考になる事例として、米国政府機関における社内講師育成プログラムを紹介します。研修対象者が組織全体で約10万人に上るため外部講師の活用は現実的ではなく、現場の専門家(SME: Subject Matter Expert)をボランティアとして選抜し、研修講師として育成するアプローチが採用されました。
10日間のプログラムは2週構成です。第1週は初日こそインプット中心ですが、日を追うごとに演習の割合が増え、プレゼンスキルと研修設計を並行して習得します。個別コーチングも組み込まれています。第2週では第1週の基本を踏まえて中級編の内容を学び、最終的に模擬研修を実施して全受講者と講師双方からフィードバックを受ける仕組みです。専門講師2名が月2回この研修を担当することで、年間384名の社内講師が育成される見込みです。
日本の研修現場においても、パンデミック期に一方通行のオンライン研修が定着したことで、参加型・演習中心の研修設計ができない社内講師が増えています。社内講師の育成においては、演習の設計とファシリテーションスキルの強化を中心に据えることが重要です。
参考事例② 社内コーチング人材の育成——米国内務省の組織改革
もう一つの参考事例は、米国内務省における社内コーチング人材の体系的な育成です。内務省は約6万人の職員が広大な国土に分散配置されており、それぞれが分野・地域別の専門家として長期間同じ業務を担っています。こうした環境では視野が狭くなりやすく、孤立感や自信の喪失が生じやすいため、高レベルのコーチングサポートが必要とされていました。
課題の明確化(経営層の理解不足・予算なし・ITインフラなし・コーチ不在・組織風土の壁)から出発し、数年をかけて経営層の巻き込みと予算確保を実現。その後、コミュニケーション力・関係構築力・サービス精神を重視した人選を行い、パンデミック中も100%リモートでコーチ研修を実施しました。目標はICF(国際コーチング連盟)レベル1〜2の資格取得です。
成果は明確で、2021〜2022年の2年間で921件・5,000時間ものコーチングが実施され、外部コーチを利用しないことによるコスト削減効果は約3億円に上りました。クライアントからの評価も高く、「おすすめできるコーチ」100%、「安心できる環境を感じた」97%、「目標達成に貢献した」80%という結果が示されています。
専門性が高く業務が細分化された組織環境は、日本の多くの企業にも共通します。社内でのコーチング文化の醸成を検討する際の参考事例として、ぜひ活用してください。
まとめ:ATD ICE 2024が示す人材育成の方向性
ATD ICE 2024のセッションを振り返ると、人材育成の潮流は「AIとテクノロジーの実装」と「人間らしいエンゲージメント・リーダーシップ・メンタルヘルス」の両軸が同時進行していることが明確です。一方を進めながら他方を置き去りにするのではなく、両方を組み合わせて取り組むことが、これからの人材育成部門に求められる姿勢です。
また、脳科学の知見が示すように、受講者の集中力や記憶力の低下は、個人の意識の問題ではなく、情報過多の社会環境が生み出した構造的な課題です。研修設計の側がこの現実に適応していく必要があります。今回紹介した5つのヒントを参考に、自社の研修プログラムを見直してみてください。
よくある質問
ATDとはどのような団体ですか?
ATD(Association for Talent Development)は1944年設立の非営利団体で、世界最大の人材育成専門家組織です。40,000人以上の会員を持ち、その半数が企業・組織の代表者です。毎年アメリカで開催する国際大会「ICE(International Conference and Exhibition)」には世界中から数千人の人材育成関係者が集まり、最新トレンドと先進事例を共有する場となっています。
ADDIEモデルとは何ですか?研修にどう活用できますか?
ADDIEモデルとは、分析(Analyze)・設計(Design)・開発(Develop)・実施(Implement)・評価(Evaluate)の5段階からなる研修設計のフレームワークです。ビジネスのPDCAサイクルを教育の文脈に取り込んだもので、体系的な研修設計のスタンダードとして世界的に普及しています。2024年のATD ICEでは、このADDIEモデルの各ステップに生成AIを組み込む手法がノバルティスの事例として紹介されました。
研修受講者の集中力が低下していると感じます。どう対応すればよいですか?
ATD ICEの脳科学セッションによると、現代の受講者の集中力低下は情報過多の社会環境が原因であり、個人の意識だけでは解決できません。研修設計側の対応として有効なのは、①参加人数を12名未満に絞る、②一方向の講義型から体験学習・演習中心へ切り替える、③間隔学習で記憶の再定着を図る、④30分に1回は画面から目を離す時間を設ける、⑤受講者の目標達成を継続的にサポートする仕組みを組み込む、の5点です。
研修効果測定はどこから始めればよいですか?
まず取り組みやすいのは、カークパトリックの4段階モデルの第1段階(受講者の反応)と第2段階(学習の達成度)の測定です。研修直後のアンケートと簡単な知識確認テストを組み合わせるだけでも、測定の第一歩になります。次に、自社の既存KPIと連動できる指標(離職率・業務エラー率・顧客満足度など)を選び、研修実施前後の変化を追う形で第4段階(業績への影響)の測定に挑戦することをおすすめします。
社内講師の育成で最も重要なポイントは何ですか?
ATD ICEで紹介された米国政府機関の事例が示すように、最も重視すべきは「演習の設計とファシリテーションスキル」です。現場の専門家は業務知識を持っていますが、受講者が主体的に参加できる演習を設計し、場の対話を引き出すファシリテーションスキルは別途トレーニングが必要です。パンデミック期に一方通行のオンライン研修に慣れた講師ほど、この点の強化が急務です。
研修設計・効果測定の見直しをお考えの方へ
アイディア・デベロップメント社では、グローバルの最新知見をもとにした研修プログラムの設計・見直しをご支援しています。ATD ICEのトレンドを踏まえた研修設計、受講者の集中力に配慮したプログラム構成、研修効果測定の仕組みづくりなど、まずはお気軽にご相談ください。







